リジェネラティブ・アーバニズム展ー災害から生まれる都市の物語 三井不動産創立80周年記念事業
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東日本大震災の経験から災害から生まれる都市へのプロローグ

2011年3月11日、
日本の東北地方太平洋沖を震源とする巨大地震が発生しました。
日本海溝に沈み込む太平洋プレートと陸のプレートの境界にたまったひずみが、大きく動いて地震を引き起こし、揺れのあとに襲来した大津波は沿岸部の暮らしを破壊しました。

原子炉の冷却に必要な全電源を、地震と津波の被災によって喪失した福島第一原子力発電所は、水蒸気爆発とメルトダウンを起こして大量の放射性物質を大気中に放出。福島県の浜通りを中心に、広範囲の放射能汚染と帰還困難区域を生みました。

地震、津波、火災、原発事故が複合した東日本大震災の死者は約1万9千人、行方不明者は約2,500人、破壊された住宅約12万2千棟、被害総額は約16兆9千億円に達しました。ライフラインの途絶は数週間に及び、復旧の遅れによる混乱で、農山漁村のコミュニティは壊滅的なダメージを受け、発生から10年以上を経た今も被災地の復興は道半ばです。

巨大地震も大津波も、この惑星の歴史から見れば、繰り返し起きてきた自然現象の一つに過ぎません。そこにヒトという種が現れ、火と鉄と言葉を巧みに操りながら、みるみるうちに数を増やし、居住域を拡大しました。自然の生態系と、ヒトの居住環境が重なることで生じる軋轢は、無秩序な自然破壊や都市の膨張、限られた天然資源やエネルギーをめぐる対立や紛争、かつてない規模で頻発する巨大災害として地球上に顕在化しています。私たち人間がこの惑星に住み続けるためには、自然の生態系と調和した居住環境、すなわち「新しい都市」のあり方を探る必要があるのです。

自然が引き起こす災害と共存するためのヒントは、都市文化と自然環境がせめぎ合う、世界の様々な地域で見つけることができます。繰り返し大津波の被害を受けてきた、東日本大震災の被災地もその一つです。

宮城県山元町の中浜小学校は、津波の浸水域に立地していたため、校舎の建替時に敷地全体を2m嵩上(かさあ)げし、避難用の外階段をつけておきました。それだけでなく、日頃から地域全体で防災についての話し合いや避難訓練を行い、災害を日常に取り込む努力を欠かさなかったため、地震発生後、地域住民と児童全員が速やかに屋上に避難し、津波の直撃を回避しました。校舎周辺の建物のほとんどは流失しています。

岩手県宮古市の姉吉地区では、1896年と1933年に起こった大津波被害の教訓を、石碑によって伝え残してきました。姉吉地区の人々は石碑に刻まれた「此処より下に家を建てるな」という教えを守り、水産業に便利な沿岸部ではなく、あえて内陸の高台に集落を作りました。東日本大震災の津波では、港に係留した漁船や水産施設は大破したものの、海岸線から幅をとっていた集落は被害を免れました。

同じ岩手県の釜石には、「津波てんでんこ」という言葉が古くから伝わっています。これは「地震が起きたら津波が来る。家族は気にせず、各自がてんでばらばらに高所に逃げて命を守れ」という意味です。この言葉は、海辺の生活が瞬時に災害モードに切り替わる際の社会秩序に柔軟性を持たせ、多くの市民が高台への避難を自ら判断し、地震直後に押し寄せた大津波から逃れています。

太平洋沿岸の多くの都市が津波によって壊滅的なダメージを受けるなか、人的被害を回避した地域には、このような水害と共存する集落の構造と伝承文化がありました。東日本大震災で私たちが得た教訓もまた、未来の都市計画にたくさんの重要なヒントを示していくでしょう。
台風、高潮、津波、干ばつに山火事・・・人間の居住域拡大と都市化、地球温暖化にともない、災害の被害と頻度は増大しています。災害の脅威を「非常時」として意識の外に置いて生きるのではなく、災害を「日常」に取り込みながら、自然と共存・共栄するための、新たな都市デザインの思想が必要です。

大きな変化はもうはじまっています。次世代に先送りするのではなく、私たちは今すぐこの仕事に着手するべきです。時に猛威を振るう自然を怖れるのではなく、災害とともにある都市を、私たち人間は、どのように作っていけばいいのでしょうか。


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